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ビリー・ジョエル/ハートにファイア(5) 1964-19891964〜89年■"Birth Control"「中絶論争」「ピル登場」「産児制限」 "Birth Control"が具体的に何を指しているのかが不明ですが、考えられるものを挙げていきます。 その1。この頃から、世界の一部で「中絶=違法」の枠組みが変化してきたこと。中絶の是非についての議論は以前からあったようですが、論争が激しくなったのはこの頃からなのかもしれません(未確認)。特にアメリカでは、意見が人によって真っ二つに分かれる問題のようですし。 その2。1960年、アメリカでピルが認可されます。錠剤をのむだけで避妊できるし、妊娠したいときは服用をやめればよいという手軽さ、また避妊率はただしく使用すればほぼ100%と高いうえ、男性の協力をえられなくても避妊できるという確実性もあって、避妊法としてもっとも普及するに至っています。日本ではつい最近まで認可されませんでしたが。(本件についてはK.Tさんから情報をいただきました。ありがとうございました。)(2004.4.15) その3.1970年代末、中国で「一人っ子政策」が始まります。20代後半までの結婚延期を奨励するとともに、産児制限なども含んだ内容です。これにより、94年の出生率は1.8%と建国以来の最低を記録しました。 ■"Ho Chi Minh"「ホー・チ・ミン死去」 1969年、ベトナムの革命家ホー・チ・ミン(本名グエン・タット・タイン)が79歳で死去します。彼の一生は、ベトナムの独立をかけた戦いの連続でした。 ベトナム共産党の設立メンバーだった彼は、1945年、日本の支配に抵抗しベトナムを独立に導き、ベトナム民主共和国の初代大統領に。しかしかつての宗主国フランスが戻ってきて、ベトナムを再び支配しようとしたためインドシナ戦争が勃発。ディエンビエンフーの戦いでベトナムが勝利を収めますが、結局ベトナムは南北に分断。今度はアメリカがこれに介入しベトナム戦争の泥沼に突入。戦争終結を見届けないまま、ホー・チ・ミンは死去してしまいます。 ベトナム戦争終結後、サイゴン市は、日本、フランス、アメリカを相手に戦い続けた彼をたたえ、ホー・チ・ミン市と改称されました。 ■"Richard Nixon back again"「ニクソン政界復帰、アメリカ大統領に」 苦学して弁護士になり、1950年に上院議員、1953年に副大統領にまで上り詰めた彼は、1960年の大統領選でケネディに敗れ、1962年のカリフォルニア州知事選にも敗北した後、一旦政界を引退します。しかし、1968年の大統領選で現職のジョンソンを破り奇跡の復活。1969年からウォーターゲート事件で辞任するまで大統領を務めます。 ■"Moonshot"「アポロ計画、月面に人類を送り込む」 宇宙計画において当初ソ連に遅れをとっていたアメリカが、威信をかけて取り組んだのがアポロ計画です。1960年に発表があって以来、月面着陸を目的として進められます アポロ1号は、地上で火災を起こし3人の宇宙飛行士の命が失われる結果になります。しかし逆にこの事故を契機に安全対策が進められ計画が進展、1969年7月20日午後4時17分39秒(日本時間21日午前5時17分39秒)、ついにアポロ11号が月面に降り立つことになります。 計画は、その後も映画になったアポロ13号の危機一髪の事件を経ながら、1972年12月7日に打ち上げられたアポロ17号まで続きました。しかし人類はこれ以来、月面に降り立っていません。ベトナム戦争の影響で、アポロ計画を続行させる余裕がアメリカになくなってきたのです。ロケット・サターンVや宇宙船の予備部品は、その後宇宙ステーションを建造する際に転用されました。 ■"Woodstock"「ウッドストック・フェスティバル開催」 1969年8月15日からの3日間、ニューヨーク州ウッドストックの近郊で開催されたこの祭典に、30〜40万の人々が集まりました。もともと、音楽とアートのフェスティバルなのですが、今ではすっかり音楽、とりわけロックの歴史的イベントして認知されていますね。ジミ・ヘンドリックスの演奏するアメリカ国歌など、その後語り継がれるようなパフォーマンスが目白押しだったせいでしょう。しかし、このフェスティバルが伝説と化している最大の理由は、60年代ヒッピー文化の総決算だったという点にあります。これだけの群衆が集まったフリーコンサートでありながら暴動などのトラブルがなかったこと(死者は出たようです。ちなみに出産も。)が、「愛と平和の60年代」の最後の年を象徴していました。 音源:ジミ・ヘンドリックス公式サイトより:ウッドストックでの演奏(一部・要RealPlayer) ■"Watergate"「ウォーターゲート事件」 アメリカ民主党全国委員会本部に盗聴器を仕掛けようと侵入した犯人が逮捕された事件。調査によりこの事件にニクソン大統領が関わっていたことが判明、彼はアメリカ大統領として初めての辞任に追い込まれました。 発端は、1972年6月17日、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部に侵入した5人の男がガードマンにつかまったこと。ここから、ホワイトハウスの指示によって政府高官がスパイ計画を画策していたことが次第に明るみになってきます。 この騒動の中、73年7月16日、ホワイトハウス補佐官のバターフィールドはテレビで爆弾発言を行います。ニクソンがホワイトハウスのすべての会話を録音するよう指示していたこと。それにより、ニクソンがこの事件にどう関与しているかについても証明できるということを言い放ったのです。これを知った特別検察官コックスはただちにテープの提出を要求しますが、ニクソンはこれを拒否。しかもコックスを解任させるにまで至ります。 これに対し国民からは抗議の嵐が巻き起こります。そして74年7月には最高裁がニクソンにテープの提出を義務づけます。結果、提出されたテープからは、ニクソンが事件の調査をやめるよう連邦捜査局に命令していたことや、政府が事件に関与していたことをもみけす工作にニクソン自身も手を貸していたことが判明します。 しかも調査の過程で、他の様々な違法行為が発覚。ホワイトハウス内情報収集担当グループが違法な手段をつかってマスコミ情報もれをふせぐ工作をしていたこと。ある人物の名誉を失墜させるため、精神分析医の診療所に侵入してカルテを入手しようとしたこと。ニクソン政権が選挙資金として違法な献金を大量に集め、政治スパイの資金に使っていた(ウォーターゲート・ビルの侵入者たちには50万ドル以上が支払われた)ことなど。 結果、ニクソンは弾劾訴追で大統領を辞職させられる直前の1974年8月9日、大統領を辞任します。この事件により、アメリカ国民の大統領への信頼は大きく揺らいだといわれています。その一方で、アメリカがれっきとした法治国家であり、大統領でも法はこえられないことを明らかにしたともいえます(以上、ほとんどマイクロソフト「エンカルタ」の要約です)。 ■"Punk Rock"「パンクロック・ムーブメント」 60年代後半のヴェルヴェット・アンダーグラウンド、イギー・ポップ、ニューヨーク・ドールズなどが体現していたアンダーグラウンドなムーブメントをもとに、1975年に、女流詩人のパティ・スミスが初期のロックのアルバム「ホーセズ」で初期のロックの持つ率直なエネルギーを表現。当時既に難解で高度な音楽理論を必要としたプログレッシブ・ロックやハードロックに対するアンチテーゼとして、このスタイルはトーキング・ヘッズやテレヴィジョン、ブロンディに受け継がれていきます(しかしブロンディがパンクだったというのは後年のヒット曲を聴く限りではなんとも無理があるように思えるのですが、初期は違ったのでしょうか。)。ニューヨーク・パンクです。 しかしパンクが商業的に成功するのは、ロンドンにおいてでした。ロンドンでブティックを経営していたマルコム・マクラレンは、かつて自分がマネジメントをしていたニューヨーク・ドールズの影響を受け、自分の店にたむろしていた素人の若者を集めバンドを結成させます。「セックス・ピストルズ」の誕生です。 ご存じの通りピストルズは、スキャンダラスな歌詞(「女王は人間じゃない」「おまえなんかに未来はない」)や言動などで注目を集め、当時不況下にあったイギリスの若者の圧倒的な支持を得、1977年には大ブームに。しかし1978年のツアー中に彼らは解散、メンバーのシド・ヴィシャスによる恋人ナンシー・スパンゲン殺人事件(諸説ありますが)とシド自身の麻薬過剰摂取による死でパンク・ブームは一端終焉を迎えます。 しかし、パンクはそのムーブメントの短さに比べ、その精神は今もロック界に多大な影響を与え続けているといえます。 ところで、punkとはもともとどういう意味なのでしょうか。辞書を引いてみると、「1 くだらない人間, 役立たず. 2 青二才, 若造. 3 ちんぴら, 与太者. 4 同性愛の相手の少年.」(研究社「新英和中辞典」第6版)となっています。4を除けばまさに「パンクロック」の語源となったことがうかがえます。 ■"Begin"「イスラエルのベギン首相、エジプトのサダト大統領とキャンプ・デービッドで和平合意」 メナヘム・ベギンは1913年、現ベラルーシ共和国で生まれ、後にポーランドのユダヤ人青年組織ベタルの代表になり、ナチス・ドイツとの戦いのためソ連で組織されたポーランド軍に入りパレスチナへ行きます。そして1948年、イスラエルが建国されると議会に選出され保守勢力の指導者となりました。第一次中東戦争ではパレスチナ人の虐殺を指導、1973年には右派政党リクード(イスラエル2大政党のひとつ)を立ち上げ代表にもなるなど、パレスチナへのタカ派的態度で知られていました。 しかしベギンとエジプト大統領サダトは、1978年アメリカのカーター大統領の仲立ちでキャンプ・デービッドにて中東和平について合意。これはイスラエルとアラブ国家の和平合意としては初のものとなり、同年のノーベル平和賞はこの二人に贈られることになりました。 この和平合意をもとに、イスラエル軍はシナイ半島から順次撤退するなどの成果がありましたが、多くのアラブ指導者やイスラム急進派はこの合意に猛反対。サダト大統領は1981年、軍事パレード閲覧中に暗殺されます。 一方ベギンは、1982年に南レバノンへの侵攻を許可しますが、同年の妻の死去とこのレバノン占領に関する論争から、83年には首相を辞任。1992年の死去まで、ほとんど人前に姿を見せなかったといいます。(2007年9月9日) ■"Reagan"「アメリカ共和党のレーガン、大統領に選出される」 1911年に靴屋の息子として生まれたレーガンは、よく知られているように、もともとは映画俳優でした。1937年にハリウッド入りし、約50本の映画に出演します。 転機が訪れるのは戦後。俳優活動の場が減るのにしたがい政治に関心を深めていったレーガンは、当初民主党に入党しました。しかし映画俳優協会会長を務めていた間、協会内部で共産主義者が影響力を持つことを懸念し、1962年には共和党員になりました。1967年にはカリフォルニア州知事に当選、1975年まで務めます。 1980年には、民主党のカーター大統領のイラン・アメリカ大使館人質事件などの失策を攻撃して大統領に初当選。その後、「強いアメリカ」(国防の強化、対ソ強硬路線、リビア爆撃など)・経済政策(社会福祉をカットし大幅減税)でリーダーシップを発揮、アイゼンハワー以来久々の2期8年の長期政権を維持します。 大統領に就任して約2ヶ月後に狙撃されたり、任期中にイラン・コントラ事件などのスキャンダルに見舞われるなど、その8年も決して平坦な道のりではありませんでしたが、レーガンの堂々とした体躯とユーモアに富んだ演説の才能は、国民が彼を支持するのに大きな役割を果たしたと言われています。 後年、アルツハイマー病を患い闘病。2004年に93歳で死去。アメリカ大統領で2番目の長寿だったそうです。(2008年5月5日) ■"Palestine"「パレスチナ紛争」 パレスチナは、地中海の東海岸に位置する場所で、現在はイスラエルとその占領地域のことを指します。 この地域には、もともとカナン人が住んでいましたが、紀元前1125年頃からユダヤ人がやってきていったん王国を築き栄えますが、その後はペルシャ支配→ローマ領→アラブのカリフ支配→オスマン帝国の支配といろんな国家に支配され、 1917年頃にはイギリス領となります(この間の中東の覇権の移り変わりについては、Imperial History of the Middle Eastをご覧いただければと思います。)。 これだけいろんな国に支配され、特に西暦135年にローマに追放され世界をさまよう身になっても、ユダヤ人はアイデンティティを保ち続けました。よりどころとなったのは、宗教(ユダヤ教)、文学的遺産(聖書、タルムード)、そしてしっかりと組織化された共同体です。この結果、19世紀にヨーロッパで起こったナショナリズムの動きと呼応して、ユダヤ人がパレスチナに安住の地を求めるシオニズム運動が発展していきます。これがパレスチナ紛争の原因その1になっているような気が個人的にはします。 原因その2は、パレスチナにある都市エルサレムが、ユダヤ、アラブ(イスラム教)両方の聖地になっているという点です(もちろんキリスト教の聖地でもあります)。ユダヤ人にとっては、かつてのイスラエル王国の首都とされた地であり、ユダヤ人が神に約束された地の象徴。イスラム教徒にとっては、最初のキブラ(礼拝の際に向く方向)に定められた地であり、預言者ムハンマドが夜の旅に出た地となっています。異なる宗教にとって同時に聖地であるということで、この地はゆずれないという思いが双方にあるわけです。 パレスチナ紛争の原因その3は、イギリスの外交政策です。イギリスは、オスマン帝国からパレスチナを手に入れるにあたり、アラブ人(メッカの太守)には「パレスチナをアラブにあげるからオスマンに対する独立運動をがんばってください」と伝えます(フサイン・マクマホン協定。この政策の一環としてイギリスから派遣されたのが「アラビアのロレンス」です。)。そう言っておきながら、その後イギリスはユダヤ人コミュニティのリーダーに「パレスチナにユダヤ人国家をつくったら承認します(ユダヤ人の支持がほしい)」と表明(バルフォア宣言)。その上、フランス、ロシアとは「パレスチナ近辺は私たちで分割しましょう」との協定を結んでいます(サイクス・ピコ協定)。イギリスによるこの3つの矛盾する外交は、厳密には対象の地域が微妙に違うため矛盾はしていないという話もありますが、結果的にユダヤとアラブの大きな不信を招いたので、やはり問題だと思います。 紛争の原因その4は、ナチスによるユダヤ人絶滅計画です。戦後、この政策に同情した世界が、ユダヤ人のパレスチナ「帰還」に同情を示し、かつ実際にユダヤ人はパレスチナに移民するようになりました。パレスチナにはすでに長い間アラブ人が住んでいるにもかかわらず。 原因その5は、収拾がつかなくなったイギリスが、パレスチナの委任統治権を放棄し、1947年に国連に問題の解決をまかせた結果、国連が投票でユダヤ人に有利な国連決議を可決したことです。この背景には、アメリカ国内のユダヤ人の支持を得たかったトルーマン大統領による圧力があったとの話もあります(どのような圧力だったのかは調べ切れませんでした)。なお、現在もアメリカの国民感情としては、「好きな国」の5位がイスラエル、下から3番目がパレスチナ自治政府となっています(出典:ギャロップ社世論調査、2008年3月)。 これら5つの原因がそろえば、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人は紛争を起こして当たり前という気がします。実際、この地域の領有・支配を巡っては、4次にわたる中東戦争と度重なるテロが起こっているのはご存じのとおりです。1993年にはパレスチナ解放機構のアラファト議長とイスラエルのラビン首相が和平条約に調印するなどの進展はあったものの、その後ラビン首相がユダヤ人和平反対派に暗殺されるなど混迷が深まり、引き続き双方に多くの犠牲者が出続けています。(2008年8月18日) (以下、後日調査予定)■"terror on the airline"■"Ayatollah's in Iran"■"Russians in Afghanistan"■"Wheel of Fortune"■"Sally Ride"■"heavy metal, suicide"■"Foreign debts"■"homeless vets"■"AIDS"■"crack"■"Bernie Goetz"■"Hypodermics on the shores"■"China's under martial law"■"Rock and roller cola wars"参考資料このページは、多くの方々やサイトから情報をいただいて作成しています。情報を下さった方々・サイトについては、それぞれの項目でその都度記載させていただいております。改めて感謝申し上げます。 その他、項目全般にわたって調査に使用した資料は次のとおりです。
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